写真のスタイルには流行があります。
今、手元にある2013年ごろの本をみてみると、「ハイキー」な写真がずいぶんと取り上げられています。
ハイキーとは写真を撮る際に「露出(明るさ)」を上げて、目でみるよりも明るく仕上げることです。
「白飛びなんて関係ない!」ぐらいの勢いで露出をあげてみると、全体が明るくかわいらしい仕上がりになることから、ずいぶんと流行ったものでした。
ハイキー写真という黒船
ハイキーな写真とセットでよく使われていたのは「色合いの調整」です。
「写真にちょっと色をつけるとオシャレにみえる」なんてことから、写真の全体の色合いを黄色に寄せる、青色に寄せる、緑色に寄せるといった撮り方も多くみられるようになりました。
全体にカラーフィルターをかけたような仕上がりにするわけですね。
こうした撮り方は、非現実な雰囲気になる、空気感が出る、ポップにみえる――などといった理由で、本や雑誌にもよく取り上げられていました。
当時のそれらの写真を見ると、今では「どうなんだろう?」と思えるものもありますが、それまでの「写真」の概念を大きく変えたものともいえます。
目の前にある現実を「現実として撮る」のではなく、目の前にある現実を「素材として加工する」撮り方。
こうした撮り方は、デジタル一眼が「その場で撮った写真を確認できる」「枚数を気にせずに撮れるので、いろいろ試すことができる」特性を持っているからこそ、生まれたものともいえるかもしれません。
撮ったものは「素材」
ここ数年は、写真の加工が容易になったことなどから、くっきり・はっきりとした仕上げ方が目立つようになってきました。
ひと昔前は、写真の「コントラスト」はデリケートなものとされていました。
コントラストを上げると、写真はくっきりしてみえます。
なぜなら、コントラストを上げることには
- 明暗の差をはっきりさせる
- 色合いの差をはっきりさせる
といった効果があるからです。
これは逆にいえば、「明暗や色合いのあいまいな部分をカットする」ということでもあります。
つまり、写真の「階調」を減らすわけで、微妙な明暗差、微妙な色合いの差が失われてしまうのですね。これらは写真の「味わい」を出すうえで、重要な要素とされてきた部分でもあります。
だからコントラストをいじるにしても、階調をできるだけ損なわないように、といった考えが強くあったわけですね。
ところは今は、撮ったものを「素材」として加工する傾向がさらに強くなってきました。
「元写真から大きく変わることを厭わない」「たとえ人工的な色合いになろうと見栄えを重視」といったスタイルが多くみられるようになってきました。
CG(コンピューターグラフィックス)のような写真になっても見栄えがよければ問題なし。「ハイキー時代の白飛びなんて関係ない!」「かわいければOK」からさらにすすんだ感じですね。
「階調なんて関係ない!」「自然かどうかよりも、かっこいいほうがいいでしょ?」的なスタイルです。
これが果たして写真にとっての進化になるのか、退化になるのかはわかりません。
失ったものもあれば得たものもある――というものであるかもしれません。
どちらも生き残る、というのはあり得るのか
写真に限らず、多くの文化は「支える人がいて成り立つ」という側面があります。
昨今の傾向でちょっと怖いのは、「目に見える反応の数だけを重視した」ものが増えてきていること。ネットでの反応、ネットでの書き込みこそが「すべての反応」的な視点が増えてきているように感じます。
本来は「反応せずに、自分の中で消化している人の方が多い」「ネットに書き込む人は一部」のはずなのですが、年々、そうした見方が薄れてきているように思います。
反応する人たちだけのほうをみた、悪い意味での内輪ができてしまっているわけですね。
昨今は「反応の数」を意識して何かをする人が多くなりました。これは時代の流れもあるでしょう。
ですが、「趣味なんだったら純粋にたのしめばいいのに、なんでマーケティングみたいなこともセットになっているんだ?」とも感じます。
この傾向はよろしくないように思います。このままの流れでいくと、味わいのあるものが減っていき、目立ちたがり屋大会的な側面が加速していくのは避けられないことでしょう。
落ち着いてたのしむこと、じっくりと味わうこと。もう少し心に余裕をもってたのしんでもよいのではないかと思います。