カメラを始めると、たいていの場合、「写真をみること」にも興味を持つようになります。
「いろいろな写真をみたい! みて勉強したい!」というわけですね。
が、そうして写真をみていくと、必ず「よくわからない写真」に遭遇します。
たとえば
- どこがいいのかわからない
- 何が評価されているのかわからない
- なぜ人気なのかわからない
といった写真ですね。
こうした写真に遭遇すると、時には「理解できない自分がおかしいのか?」と感じてしまうことがあります。それが人気とされる写真が対象のときは、なおさらです。
が、実は、こうした感覚はきわめて正常です。なぜなら、人には「理解できない写真があって当然」だからです。
理解できない写真があって当然
では、なぜ「理解できない写真があって当然」なのでしょう。これにはいくつかの理由があります。
「好み」という感覚
まずは写真をみて勉強する際に、忘れられがちな点からいきましょう。それは「好み」という感覚です。
「いろいろな写真をみて勉強したい」という思いが強いと、自分の感覚を後回しにしてしまうことがあります。
たとえば次のような考え方で写真をみるようなケースです。
- この写真は好みじゃないけれど、勉強になる部分があるはずだ
- この写真は好みじゃないけれど、人気になる理由があるはずだ
これは、ものごとを学ぶ際にとてもよい取り組み方です。
が、ここで気をつけたいのは、好みにも許容範囲があるということです。
つまり、自分が「好みではない」と感じるものの中には
- 自分の好みではないけれど、好きな人がいるのも理解できるもの
- なぜそれを好む人がいるのか、まったく理解できないもの
があるのですね。
これは、写真以外のものに置きかえてみるとわかりやすいかと思います。
食べ物、小説、マンガ……などなど、別のジャンルに置きかえてみると、この感覚が理解しやすくなります。
つまり、自分の好みの許容範囲を超えたものは、理解しにくくなるということです。
「わかる時期」の可能性
「理解できない写真があって当然」という理由の2つめは、それをわかる時期についてです。
人には多かれ少なかれ次のようなものがあります。
- 「なぜ昔は〇〇をあんなに好きだったのだろう」と感じるもの
- 「昔はそうではなかったけれど、今は好きになった」もの
もちろん、それぞれ逆のパターンあるかと思います。
ここからわかることは、時期によって人の感性や感覚は変わるということです。
変わるといっても、100%別のものになるわけではないので、「変わる部分がある」というほうが正確かもしれません。
つまり、感性や感覚は変化する(変わる部分がある)、だから
- 今この時点の感性や感覚にフィットするものもあれば、フィットしないものもある
ということです。
たとえば、今、理解できないものがあった場合、次の可能性が考えられます。
自分の感性や感覚が時期によって変わっていくとするなら
- この先、いずれ理解できる時期がくるかもしれない
- すでに、理解できる時期を過ぎ去っているかもしれない
- 永遠にフィットすることはないかもしれない
といった可能性が考えられるわけですね。
これが「理解できない写真があって当然」の理由の2つめです。次回に続きます。