前回は「情報の少なさと認識の話」と題して、「情報量」をテーマにしてお届けしました。
今回はその続きです。
前回の記事では
前回の記事では、情報が限られている中で、みんなが同じような情報を得ていれば、それぞれが似たような認識を持つようになる――ということをお話しました。
情報の発信方法が限られていたが故に起こったこと、それに対して「誰もが情報を発信できる時代」がもたらしたものについてお届けしました。
真偽の判断が難しくなった時代――今回はその続きです。
フィルターの話
これはデリケートな話でもありますが、ひと昔前は、本に対する信用が今よりもあったように思います。
多くの人の中に
- 本に書いてあることは正しい
- 内容が精査された、よいもののみが出版される
という認識(あるいは幻想)があったように思います。
――が、今、その当時の本を読み返してみると、中には「よくこの内容で出版できたなあ……」と感じさせるものもあります。
時代というものもあるでしょうが、今のように「何でもかんでも読者の声が表に出る時代ではなかった」という点も大きいかと思います。
読者の声が表に出るとしたら、その雑誌の「読者の声のコーナー」「おたより」のコーナーぐらいだったんですね。
それらには、当然のことながら、読者から寄せられた声がすべて乗るわけではありません。編集部で選ばれたもののみが載るわけですね。
なぜ、選ばれた声のみを載せるかといえば、スペースの関係もありますが、掲載する読者の声も雑誌を構成する要因だからです。
つまり、その雑誌のテイストや方向性にふさわしい、あるいは盛り立ててくれるようなものをチョイスするわけですね。
それがその本や雑誌の方向性を確立し、信用性も高めていたように思います。
こうしたしくみは今となっては賛否両論あるかもしれませんが、よくも悪くも、読者の声を表に出すか出さないかのフィルターとして効いていたと思うのですね。
フィルターがなくなるとどうなる?
今の時代は、個人が自由に発信できるので、半ば言いがかりのような声でもかんたんに表に出てしまいます。
そして、それに同調する声が大きければ(あるいは大きいようにみせれば)「聞き逃してはいけない重要な意見」のようにみえてしまうのですね。
この話は、上で挙げた「本や雑誌」を例にするとわかりやすいかと思います。
今は、個人がいくらでも本や雑誌に書かれていることに対して異論を投げかけることができます。
それが正しいかどうかは別として、同調する声を多く集まれば、その論も見逃せないもののように「みえてしまう」のが今の時代です。
道しるべはどこにある?
こうした状況で困るのが「ふつうの人」、あるいは「そのジャンルについてこれから学ぼうとする人」です。
そう、「何が正しいのかわからない」状況なんですね。
とりあえずどれが基本で、どれがスタンダードなの??という、根本的なことが非常に見えづらくなってしまっているのですね。
情報は取捨選択が必要といわれますが、自分の中にその根幹となる「芯」がつくれない――そんな状況になっているように思います。
本に頼ろうにも、ネットに正反対の意見が書かれていたら「この本、大丈夫かな?」と思ってしまうのが、人情です。
特に、これからそのジャンルについて学ぼうとしている人は、いいか悪いかはわからないわけですから、「本も信用できないかもしれない」という認識が芽生えてしまう可能性もあります。
誰でも情報が発信できるようになったことで、よいこともあれば難しくなったこともあるわけですね。
次回に続きます。